3.11

 

冬の寒さも和らぎ日毎に春の暖かさを感じ始める今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。こんにちは、はせです。

 

震災から早6年、当時高校2年生だったぼくも今は社会人1年目を終えようとしており、時の流れの速さを痛感しております。

 

あの震災を通じて、国としての問題や人類としての問題を話し合う人は多かったし、まだ続いていくでしょうが僕ら庶民レベルでは、最も考えたのは「死」についてだと思います。

 

大切な人が死ぬ、ということの辛さを僕は経験したことはないですが、震災は人間の弱さ、儚さだけではなく尊さも考えさせてくれたのではないかなと思います。

 

僕は黙祷とか御参りに意味を見出せないタイプの人間で、家族がラジオを流して黙っている時は、そんなことしても死んだ人は戻って来ないし、そもそも知らない人だしと感じてました。

 

ですが今になって思えば、震災を通じてようやく「今、生きているということ」の有難さを実感できたという人の感謝を込めているのかなと思います。当たり前が当たり前ではないことを思い出すひと時としては、良いんじゃないかと思います。

 

同じことは「誕生日おめでとう」にも思っています。頑張ったのは母親であって、僕が頑張って生まれたわけでもない上にその人以外にとっては何も意味もないただの1日を祝う意味がわかりません。

 

ですがこれも誕生日という原点に立ち返ることで生きていることの有難さを感じる風習なのかなと思います。

 

余談ですがBUMP OF CHICKENはHAPPYという曲についてのインタビューで、「誕生日を祝ってるわけではなく、生まれてくれて、今生きててくれてありがとう、という思いを伝えるのが誕生日おめでとう、という言葉の本当の意味だと思う」と言っていたので、僕もそう思います。

 

はっきり言って僕は、当たり前が当たり前にあることも、目の前にいる人がそこにいるのは奇跡的なことだということにも、言葉も行動も必要ないと思います。想っていれば分かっていればわざわざ周りを巻き込む必要のないことです。人間は愚かしい、そう思い直させてくれるから、今日という日も誕生日も嫌いじゃないです。

 

かしこ